「国造神が天から降りてきて島をつくった。いい場所を選んだつもりが、アメマスという大きな魚の背中だった。島を背負わされた魚は怒って暴れ出し、地震を引き起こすようになった」(9月7日付「朝日新聞」)―。今回の北海道大地震(平成30年北海道胆振東部地震)について、天声人語氏はアイヌ研究者、更科源蔵の『アイヌ民話集』を引用して、こう書いている。たまたま、今年は幕末の探検家、松浦武四郎(1818〜88年)が名付け親になって、それまで「蝦夷地」と呼ばれていたこの大地が「北海道」と命名されて150年の節目に当たる。なぎ倒された木々とむき出しの土砂崩れの惨状を目の当たりにしながら、私は23年前の阪神・淡路大震災の光景を目に浮かべていた。
当時、現地ルポのために西宮市に入った私は倒壊した建物群にではなく、その倒壊を防ぐように家々を支えている街路樹の並木に目を奪われた。被災者たちは公園の中の巨木に下に身を寄せ合っていた。足元には地中深くまるでタコの足のように太い根が張り巡らされていた。「木はただ、地面に突っ立っているんじゃない。逆に地面を下から支え持っているのさ」―。ふと唐突に、アイヌのフチ(おばあさん)の言葉を思い出した。樹木のことをアイヌ語で「シリ(大地を)・コロ(持つ)・カムイ(神)」という。「逆立ちしてごらん。そうすれば、あんたも木の神様になれるっていうわけさ」とフチはその時、ニヤニヤしながらそう続けた。
連日、テレビが映し出す北海道の大地は樹木の神々が悲痛な悲鳴を上げているようにさえ見える。アイヌの人々はかつて、北海道のことを「アイヌモシリ」と呼んだ。「人間が住む静かな大地」という意味である。つまり、この大地は誰の所有にも属さない「無主地」だったのである。明治政府は古代律令制以来の五畿七道にならい、東海道や南海道と同じように日本国の領土として組み入れた。アイヌ民族は「旧土人」と蔑(さげす)まれ、無主地だった広大な大地は「官有地」として、入植した和人(本土人)に次々に払い下げられた。当時は富国強兵下で木材の需要は高かった。アイヌ民族が守り続けてきた"自然林”はあっという間に伐採され、はげ山と化した山肌は人工林に姿を変えていった。
「開拓判官」に任じられた武四郎はアイヌ民族を搾取する場所請負制度の廃止を明治政府に進言したが、これが拒否されたために位階を返上して辞任した。現在、国土交通省の管轄下に「北海道開発局」がある。北海道は現在に至るまで「開発」の対象として存在し続けているのである。アイヌ語地名にはその土地の特長(記憶)が刻み込まれている。例えば、トイ(崩れる)やペルケ(裂ける)などを冠した地名はがけ崩れや山腹の崩壊が起こりやすい場所(崖地や山)であることを示唆している。地名研究者によると、トイ・パケ(崩れた・出岬=枝幸町「問牧」)やトイ・ピラ(崩れた・崖=札幌市「豊平」)、ペルケ・ヌプリ(裂けた・山=弟子屈町「美留和山」)などその命名は至るところに及ぶという。
「神戸」という和名も考えてみれば、不思議な命名である。最大の被害(犠牲者4500人以上)を記録した23年前のあの大災害の際、あるアイヌの友人がしみじみと語った言葉が頭の片隅に残っている。「『神戸』を字面通りに読めば、神々の出入り口ということだよな。その出入り口をコンクリ−トで塗り固めてしまっては、神々は窒息してしまうじゃないか」―。アイヌ民族は森羅万象(自然)を「カムイ」(神)と敬い、自然災害は神々の怒りと考えてきた。だからこそ、危険な場所は地名の中でそのことを教え、畏敬の念をもって折り合いをつけてきたのであろう。
まるで「山津波」ように崩れ落ちた光景を目の前に見る時、そこには「シリコロカムイ」の姿はもはやない。人の手で整然と植え込まれた細々とした木々たちは神々の怒りを一身に受けているたようにさえ映る。「平成30年北海道胆振東部地震」は、言葉の本来の意味での「人災」ではなかったのか―。
(写真は一瞬のうちになぎ倒され、褐色の地肌をあらわにした山肌=9月6日、北海道・厚真町で=インタ−ネット上に公開の写真から)
《追記》〜「北海道旧土人保護法」
悪名高いこの法律は1898(明治32)年に制定され、1997年7月に「アイヌ文化振興法」(略称)が制定されるまで約100年間、続いた。一方的に官有地に編入した土地を逆に「保護」名目で貸し与えるという歴史的にもまれにみる“愚民政策”として記憶されている。土地関係の規定は以下の通り。
第一条 北海道旧土人ニシテ農業ニ従事スル者又ハ従事セムト欲スル者ニハ一戸ニ付土地一万五千坪以内ヲ限リ無償下付スルコトヲ得
第三条 第一条ニ依リ下付シタル土地ニシテ其ノ下付ノ年ヨリ起算シテ十五箇年ヲ経ルモ尚開墾セサル部分ハ之ヲ没収ス