以前ならスル−していたはずだが、妻に先立たれたせいなのか、こんな本の広告が目に止まるようになった。例えばその一冊、『妻が願った最期の「七日間」』は朝日新聞の投稿欄(3月9日付)に掲載された投書がきっかけで、SNSで19万人以上がシェアするなどの大反響を呼び、単行本化された後も重版を重ねているという。「(今年)1月中旬、妻容子が他界しました。入院ベッドの枕元のノ−トに『七日間』と題した詩を残して」という書き出しで始まる投書はこう続く。「神様お願い この病室から抜け出して 七日間の元気な時間をください 一日目には台所に立って 料理をいっぱい作りたい…そして七日目。あなたと二人きり 静かに部屋で過ごしましょ 大塚博堂のCDかけて ふたりの長いお話しましょう」
この約半年後、私の妻が旅立った。訃報を知らせる葉書にこう書いた。「妻、増子美恵子儀が7月29日未明、他界しました。ここ数年間、がんを患っていましたが、直接の死因は消化器出血による”突然死“でした」―。妻容子さんとの交換日記などを加筆した著者の宮本英司さんは投書をこう締めくくっている。「妻の願いは届きませんでした。死の最後の場面を除いて」。この落差に打ちのめされた。一階のベットから転げ落ちるようにして、妻は死んでいた。2階から降りてきて、この異変に気が付いたのは死後4時間もたってからだった。英司さんのように手を握りながら、看取ってやることができなかったという悔恨(かいこん)が今も付きまとう。
私より7歳ほど若い宮本夫妻は早稲田大学の同窓で、妻の容子さんは宮沢賢治を、英司さんは石川啄木を卒業論文に選んでいる。本書の中で英司さんはこう書いている。「盛岡で石川啄木記念館に行って、花巻で(賢治の弟の)の宮沢清六さんにお会いして,平泉の中尊寺に泊ったね」―。容子さんにステ−ジ4の小腸がんが見つかったのは2015年8月。私の妻も前年の6月に同じステ−ジ4の肺がんと診断された。卒論のテーマにそろって、わが郷土・岩手の文学者を取り上げていることにも驚いたが、死に至る病歴もあまりにも似通っている。急に2人の存在が近しくなったような気がした。
「人が亡くなった後の喪失感が、これほどまでに激しいものだとは、体験するまでわかりませんでした。まるで自分の半身が亡くなってしまうような感覚です」と英司さんは妻を病魔に奪われた時の気持ちを記している。私にもぴったりくる言葉である。宮本さんはがんとの闘病記を”夫婦愛“として世に語りかける形で、この喪失感から脱しつつあるようだ。私にはまだまだ、時間が必要である。死の1カ月ほど前から、妻はほとんど寝たっきりの状態になった。ヘルパ−の力も借りたが、入浴だけは他人じゃイヤだと言った。妻の全身をきれいに洗い流す介助役を始めてやった。人生の初体験である。この程度の私だった。背中に石けんを塗りながら、さりげなく聞いてみた。「お母さんに羞恥心(しゅうちしん)はなくなったの」―。その応答に互いに大笑いした。夫婦のきずなが一番、縮まった瞬間だったのかもしれない。
「ほかの男には羞恥心はあるわよ。でもね、あんたになんか、とっくにないわよ」―。息を引き取ったのはその数日後のことである。妻が最後に残してくれたこの言葉をいつまでも大切にしたいと思っている。この日(9月11日)、気の遠くなるような「喪失」をもたらした東日本大震災から7年半目の弔いの日を迎えた。
(写真は大きな反響を呼んでいる宮本さんの本)