●《第3話》〜日本にたどり着いて
翌日、双発機でグアム島へ。精密検査などを受けた十数日後の1月21日、「飛行機で日本に帰す」。その帰途、機上からサイパン島を見て、山蔭は「ここもかつて日本軍が玉砕した島、花と散った多くの将兵の霊に、私たちは思わず合掌した」と書いている。
松戸は1月24日、郷里の千葉に帰り、温かく迎えられた。砲弾片を受けた左足の甲が痛みだし、歩行困難になった。しだいに不眠症にもなり、ときおり眠ると自宅周辺が焼夷弾に焼き払われ、米兵に攻められる恐怖の夢に襲われた。帰国後に、全国の硫黄島関係者の遺族、行方不明者の近親者から、1日10数通の照会状が来て、父や夫の最期の場所や日時、ほかに隠れた生存者の有無を尋ねられたという。戦後の日本には、悲しみと一縷の望みが広がっていた。
松戸は、山蔭の帰国後の消息に触れている。1月24日、岩手に帰る山蔭を上野駅に見送った。山蔭の郷里・花巻での様子はわからないが、彼は復員後に警察予備隊を志願。合格したのだが、入隊後の再検査でヘルニアと分かり、不合格になった。グアム島での精密検査でそのことは分かっていたが、彼自身が米軍の下での入院や手術を望まず、まずは帰国したい意向だった。その時に「海軍防衛隊時代、12センチ高角砲の訓練で、重い弾の装填を毎日やらされ」たことで、と山蔭本人から聞いていた。島内でも、あまり重いものは持たず、夜の外出もためらいがちだったという。
それにしても、朝鮮戦争勃発(1950年6月)に伴って、米軍の日本駐留部隊が朝鮮に出動したあとの国内治安の対応策として生まれた警察予備隊(のちの保安隊、現在の自衛隊)であるが、戦争に苦しんできた山蔭がなぜそのような組織に入ろうとしたのか。終戦後の経済混乱期の就職難の時代、好き嫌いを言える状態になく、帰国したばかりの山蔭にとっては技量を生かせる職業に映ったのだろう。
●《第4話》〜二人の「日記」のこと
ところで、これまで引用してきた山蔭、松戸の手記というか日記は、二人の思いを解く大きなキ−ワ−ドになっている。結論から言うと、二人は共著として『硫黄島 最後の二人』(読売新聞社刊)を、帰国から17年後の1968(昭和43)年8月に刊行している。松戸の場合、島で書き綴っていた4冊の日記を投降時に、50センチほどの穴を掘り埋めてきた。ところが、その後偶然に島内の工事をしていた建設会社のブルド−ザ−によって、それが掘り起こされたのだ。もっとも、鉛筆で書いた昭和20年の日記は残っていたが、そのあとの3冊は拾った米軍のインクで書いたため、硫黄島のガスのせいか、消えてしまっていたという。
一方、山蔭も日記をつけて、島に隠してきた。この日記に思いが強く、いつか島に戻って、という気持ちがあった。そう思いながらも、帰国してから仕事の合間を見て、思い出すままに手記を書き溜めていた。その原稿が、松戸のものとともに、この本の出版に生かされることになったのだ。1949年7月4日の岩手日報紙によると、このころ母親ハルのもとに厚生省引揚援護局から、光福の日記がボロボロになってはいたが、見つかったとの連絡があったという。
(写真は砂浜に掘ったタコツボの中で玉砕した2人の日本兵。「彼らは天皇のために死んだ」と海兵隊の記録写真は記している。=インタ−ネット上に公開の米軍資料から)