ひねくれ者だから、「平成最後の…」と言われるとすぐに背を向けたがる癖(へき)があるが、お月さんとなると話がちがう。ネイティブアメリカンが「ピンクム−ン」と名づけたという平成最後の満月が19日夜から20日の未明にかけた中天にぽっかりと浮かんだ。妻の遺影と位牌を両腕に抱え、私は月明りの野外に佇(たたず)んだ。「花月圓融清大姉」と金箔の文字が浮き出ている。昨年夏に旅立った妻は生前、ニコニコと笑顔を絶やしたことがなかった。だから、みんなから「満月さん」と呼ばれていた。それに大の花好き。「花と月とが圓(まど)かに融(と)け合う。故人にぴったりだと思います」と住職は鼻高々だった。
月は満月ばかりではない。その満ち欠けは時に不吉な予感を呼び起こすこともある。たとえば、元男性職員が19人の利用者を刺殺した「相模原障がい者施設殺傷」事件に題材を得た作家、辺見庸さんの近刊のタイトルはずばり『月』であった(2019年1月25日付当ブログ参照)。そして月といえば、私は真っ先に津軽の方言詩人、高木恭三(故人)の「冬の月」を思い出してしまう。同じ満月に向けるまなざしの落差にハッとさせられる。こんな詩である。
嬶(かが)ごと殴(ぶたら)いで戸外(おもで)サ出はれば
まんどろだお月様だ
吹雪(ふ)いだ後(あど)の吹溜(やぶ)こいで
何処(ど)サ行(え)ぐどもなぐ俺(わ)ぁ出はて来たンだ
──どしてあたらネ憎(にぐ)くなるのだベナ
憎(にぐ)がるのぁ愛(めご)がるより本気ネなるもんだネ
そして今まだ愛(めご)いど思ふのぁ どしたごどだバ
ああ みんな吹雪(ふぎ)と同(おんな)しせぇ
過ぎでしまれば
まんどろだお月様だネ
(方言詩集『まるめろ』所収、※まんどろだ=まん丸で明るいという津軽方言)
新元号「令和」の典拠とされる万葉集「梅花の歌」序文はこうなっている。「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き…」(書き下し文)。元号提案者と言われる中西進さんの『万葉集』はこの部分を「時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとく白く咲き…」と現代語訳している。このように、新元号の中にも「令月」という表現で月が出てくる。
妻は令和にこそ生を生き延びることはできなかったが、梅や桜の季節に合わせたピンクム−ンを存分に仰ぎ見ることができたと思う。当地・花巻の桜はいまが盛りの春爛漫である。妻の霊は孫たちに見守られ、沖縄・石垣島のサンゴ礁の海に眠っている。その地で娘夫婦が営むカフェの名前も「新月」を意味する「朔(さく)」(物事の始まり)である。まんどろだお月さんに照らし出されながら、いまは亡き妻…花月圓融清大姉よ、永遠(とわ)の満月たれ――
(写真は漆黒の闇にくっきりと浮かんだ平成最後の満月(ピンクム−ン)=4月19日夜、インタ−ネット上に公開の写真から)
《追記》〜「お命ちょうだいします」
「夕張炎上」(4月17日付当ブログ参照)について、札幌在住の元同僚から20日夜、以下のメ−ルが送られてきた。北炭新鉱の事故の際、坑内の延焼を防ぐため、夕張川の川水が注がれた。坑内にはまだ生死不明の十数人が残されていた。「お命ちょうだいします」という当時の社長の”宣告"に身が震えたことをまざまざと思い出す。
※
ブログ「追記」に触発されたわけでもありませんが、石炭博物館の現場に出かけてきました。午後3時現在、ほぼ鎮火状態とやらで、応援の消防車も撤収にかかっているところ。かすかなにおいが漂う中、ポンプで汲み上げた水が、こんどは逆に土手から浸み出して川へ流れもどっていくのを目にしましたが、ほんとうに再発火することはないのか、疑問が残ります。
わたしのほかには、カメラを手にした記者が数人と、様子を見に来た何組かの夫婦連れ(いずれも地元の人と見受けられた)。話しかけてきた女性(60代か?)は、「南大夕張」や「北炭新鉱」の言葉を口にしつつ、「火災とか注水とか聞くと、とってもいや−な気持ちにさせられる」と、つぶやいていました。折しも夕張は市長・市議選のさなかですが、彼女(↑)によれば、「さすがに―」昨日は全候補が選挙運動を控えたとのことです。