「先の大戦の翼賛体制とはかくありき」―。平成から令和への「改元」フィ−バ−を首をすくめながら眺めているうちに、まるでシルエットのように遠い記憶の片々がよみがえってきた。「翼賛」報道一色に染まったこの国の姿に何かよからぬ予感を感じたせいかもしれない。ちなみに「翼賛」(よくさん)を広辞苑で調べてみると、「力をそえて(天子などを)たすけること」とある。「天子」とは即「天皇」のことである。リベラリストとしての現上皇をとやかく言うのではない。逆に「天皇の戦争」と言われたあのアジア・太平洋戦争で軍部と一緒になって、戦意高揚を煽(あお)ったメディアがいままた、二重写しになって目の前に現出したような思いにとらわれたのである。
中国文学者の竹内好(故人)が「一木一草にも天皇制が宿る」と述べ、政治学者の藤田省三(同)がこう書いていることを最近、ものの本で知った。「象徴としての『天皇』は、温情に溢(あふ)れた最大最高の『家父』として人間生活の情緒の世界に内在して、日常的親密をもって君臨する」―。「令和」元年とはまさに、政府とメディアが一体となって演出した新たな「天皇制」の復活劇の一大政治イベントではなかったのか。目を凝らすといびつで歪(ゆが)んだ光景が去来する。
上皇ご夫妻が沖縄への慰霊の旅に11回も足を運んだことをメディアは繰り返し伝えた。しかし、沖縄戦から断絶することがなく続いている「戦争の最前線」―たとえば、辺野古新基地建設の是非などと関連づけた報道は皆無に等しかった。抵抗の現場に身を置く芥川賞作家の目取真俊さん(58)はその怒りを自らのブログにぶつけた。「日米の軍事植民地と化した沖縄の状況、ヤマトゥ(本土)による構造的差別は何も変わらない。どこが新しい時代か」(5月1日付「海鳴りの島から」)。安倍「一強」政治による「天皇」の政治利用は国民の多くの奉祝気分に支えられ、いまや順風満帆の気配である。新元号発表(4月1日)の首相会見にのけぞった。わが宰相はこう言い放ったのだった。
「本日から本格的にスタ−トする働き方改革は、何年もかけてやっと実現するレベルの改革だ。次代を担う若者たちが頑張っていける一億総活躍社会をつくり上げることができれば、日本の未来は明るいと確信している」(4月2日付「朝日新聞」)―。この会見には裏話がある。「首相の元号ではなく、次の時代の元号。政権の政策につなげて『安倍色』を出し過ぎれば、政治的なリスクになりますよ」(4月30日付同紙)。こうした首相官邸幹部の進言に対し、さすがに談話では言及を避けたが、会見の場ではふと口を滑らせてしまったというのが真相なのだろう。これでは政教分離などはどこ吹く風、「元号」つまり「天皇」、さらに言えば「憲法」の私物化という声が挙がっても不思議ではない。その自信のほどが憲法記念日(5月3日)でのビデオメッセ−ジではっきりと示された。
2020年の憲法改正に意欲を示した安倍晋三首相はメッセ−ジの冒頭をこう切り出した。「国民こぞって歴史的な皇位継承を寿(ことほ)ぐ中、令和初の憲法記念日に…」―。何か胸騒ぎを覚えた。そういえば、天皇制を頂点としたヤマト(大和=本土)の中央集権国家は北海道(アイヌモシリ)と沖縄(琉球=ニライカナイ)の内国植民地化によって可能になったことを歴史は教えているのではないか。そのことに不意に思いが至ったのである。独自の文化を育んできた”辺境”を切り捨てる。たとえば、ヤマト言葉(日本語)の強制などの「皇国臣民化」政策が、これである。
改元を前にした4月19日、アイヌ民族を法律上初めて「先住民族」として位置づけた「アイヌ民族支援法」が成立した。アイヌ政策推進会議座長の肩書を持つ菅義偉官房長官はこう胸を張った。「アイヌの方々が民族としての名誉と尊厳を保持し、これを次世代に継承していくことは、活力ある共生社会を実現するために重要だ」―。差別の禁止を明記し、アイヌ施策の推進を国と自治体の責務としたが、土地や資源などをめぐる肝心の「先住権」については棚上げにされた。国は「民族共生象徴空間」(国立アイヌ民族博物館)を来年のオリンピック年に合わせ、北海道白老町にオ−プンさせることにしている。
アイヌ民族を「先住民族」として認めることをかたくなに拒み続けてきた末の突然の政策転換である。世界の先住民族が参加する「五輪」精神を高揚するための「アイヌ利用」という魂胆(こんたん)が透けて見える。現に新法に反対する団体からは「これまでもそうだったが、アイヌを観光などの売り物にするという逆差別さえもたらしかねない」という声が出ている。「北海道旧土人保護法」(1898=明治32年)→「アイヌ文化振興法」(1997=平成9年)→「アイヌ民族支援法」…こうした流れを見ても、国がアイヌ民族の受難の歴史に謙虚に学んだという形跡はない。遠く「琉球処分」に端を発し、いまなお米軍基地の重圧に苦しむ現在の沖縄の姿がこれに重なる。
「沖縄基地負担軽減」担当大臣の菅官房長官はいま「令和おじさん」として、人気が急上昇中らしい。アイヌの人々にアメをしゃぶらせ、返す刀で沖縄の人々にムチ、いや刀をふるう―その「特高(警察)」的な手腕がこの人の得意技である。安倍首相が「令和」をもてあそび、次期総裁候補にも取りざたされる菅官房長官の指揮の下、辺野古新基地の建設現場では連日、土砂投入が強行される。この光景はやはり、“悪夢”としか言いようがない。令和の時代はひょっとすると、新たな装いをこらした天皇制と内国植民地の再来を予言しているのかもしれない。そして、それを可能としているのは相も変わらず、北と南の“辺境”に対する本土側の驚くべきほどの「無知・無関心」である。
「単一民族神話」という名の“亡霊”が背後に見え隠れする………
(写真は「令和」の新元号を発表する菅官房長官=2019年4月1日、東京・首相官邸で)
《追記》〜令和の時代に重い一文
5月8日付「朝日新聞」にミュ−ジシャンの後藤正文さんが以下のような文章を寄せている。「令和」狂騒曲が吹き荒れる中、こうした視点で論じた言説は法哲学者の井上達夫さん以外には見当たらない。井上さんはこう語っている。「私は象徴天皇制を、日本に残った最後の『奴隷制』だと考えます。…天皇・皇族に対する人権侵害は被差別少数者の人権侵害と通底しています」(5月3日付「朝日新聞」)。―こうした冷静な議論がいま、必要なのではないか。
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平成が終わり、元号が令和に変わった。正月を迎えたように盛り上がる人たちもあったけれど、僕はその波に乗り切れないでいる。様々な差別を撤廃し、誰にでも機会の開かれた公正な社会を目指しながら、人類は歩みを進めていると僕は信じている。
天皇制はそうした考え方と食い違う性質を持っている。生まれながらに特別な役割を持つ人の存在を認めることは、生まれながらに卑しい人の存在を認めることと同じだからだ。天皇制を守りながら、制度がはらむ差別的な性質を乗り越えてゆこうという意思を、多くの国民や社会からは感じない。
例えば、天皇と皇族のプライバシ−は守られず、恋愛や進学などの私事についてまで報道されて、エンタ−テインメントのように消費されている。この国と国民の統合の象徴としての役割を担うだけでなく、基本的人権を制限される立場を生まれながらに引き受ける天皇とその家族の苦労を思うと、言葉を失う。
出自による差別は不当だという認識が、今日の社会に広く行き渡ることを望むが、天皇制の前で僕は沈黙している。天皇の地位は「国民の総意に基く」のだと、憲法に記されている。令和の時代に読み返し、語り合うべき、重い一文だと思う。