「沖縄本島には過去と現在の戦争が共存し、石垣島や宮古島などの先島には未来の戦争が準備されているんです」―。石垣島に伝わる古民謡「トゥバラ−マ」の唄い手としても知られる山里節子さん(82)は「いのちと暮らしを守るオバァたちの会」(20人)の代表を務めている。平均年齢75歳で、最高齢は93歳。政治資金規正法に定める正式な”政治結社”であるが、収支報告はいつも「ゼロ」である。その結社に結集するオバァたちがミサイル基地建設反対や住民投票の実施などを求めて、毎週日曜日に島のあちこちでスタンディング(抗議行動)を繰り返す。その神出鬼没ぶりはまさに“叛逆老人”の名にふさわしい。
山里さんを突き動かす心の片隅にはある「贖罪(しょくざい)意識」が隠されている。小山全体が公園に指定されている「バンナ公園」の一角に「八重山戦争マラリヤ犠牲者慰霊の碑」と刻まれた花崗岩の石碑が立っている。旧日本軍は米軍上陸に備えて、島民をマラリアが猖獗(しょうけつ)する島中央の「白水」地区に強制疎開させた。国民学校1年生の時である。山里さんは辛うじて死を免れたが、家族8人のうち、母と祖父が罹患して死亡し、妹は餓死、兄は戦死した。マラリアに倒れた住民は3千人とも5千人とも言われる。山里さんは高校生の時、島内に設置された琉球文化会館で英語を学ぶ機会を得た。その英語力を買われて、米軍占領下で行われた地質調査の助手に採用された。「その時の調査が現在進行中の自衛隊配備計画の基礎データとして、利用されていると思うと…」と山里さん。
「私たちは迷うことなく『憲法九条の碑』をここに設置し、改めて内外にその意義を闡明(せんめい)にする」―。格調高いメッセ−ジを謳いあげた巨大な石碑が石垣市役所に近い公園に立っている。九条にちなんで、中国産の原石の重さは9トン、裏には平和の象徴「鳩」の図柄が彫られている。「鳩」は「九(きゅう)」とも読ませるという工夫である。デザインを担当したのは地元の彫刻家の潮平正道さん(86)で、23年前に建立された。マラリアの慰霊碑を手がけたのも潮平さんである。「「戦時中、軍隊は秘密保持のために住民を監視し、マラリア発生地へ強制移住させた。今度は自衛隊が同じことを繰り返そうとしている」―。叛逆老人の男性側の代表格でもあるその言は頼もしい限りである。
「石垣市非核平和都市宣言」(1984年建立)と「石垣市核廃絶平和都市宣言」(2011年建立)―。「九条の碑」近くに一見するに同じ碑ではないかと見まごう二つの碑が並んで立っている。前者は革新市政時代のもので、後者は自衛隊誘致に積極的な中山義孝現市政になってからのものである。目を凝らすと「わが国憲法の崇高なる理念に基づき、非核三原則の完全実施を求めるとともに…」という前者にあった「憲法」の二文字がそっくり消えている。「九条の碑」に対する卑劣で露骨な挑戦である。
「叛逆老人の全国組織をつくったら、面白そうね。北海道から沖縄まで、お金はないけど暇とパワ−を持て余しているオバァとオジィが全国で一斉に“蜂起”(ほうき)するのよ。あなたもどう!?」」と山里さんが破顔一笑した。「石垣島の怒れる若者たち」はこんな叛逆老人たちのあたたかい眼差しを背にますます、輝いて見える。日本の未来を託す希望の光がこの島にはあるような気がしてきた。
「トゥバラ−マ」は男女が情愛を交わしながら、掛け合いで歌う仕事唄で、例えばこんな歌詞である。
月の光を浴びて輝く砂浜、夜の更けるのも知らないままに歌っていたあの日……
馬車に揺られながら稲刈りを終えるヨーンバイの道すがら、
南天にさそり座が大きなハサミをふりかざしていた夏の日……
雨の滴を聞きながら淋しそうに歌った母の声……
初めて女性と歌を掛け合い緊張のあまり声が出なかった日……
殺伐とした都会で望郷の念にかられて親友と声を張り上げた日……
走馬灯のように蘇るとぅばらーまの思い出……
とぅばらーま歌は、いつも暮らしの中にあった。
(写真は「マラリア犠牲者慰霊の碑」の前に立つ山里さん=1月6日、石垣島中央部のバンナ公園で)