「貴様と俺とは 同期の桜/同じ兵学校の 庭に咲く/咲いた花なら 散るのは覚悟/みごと散りましょ 国のため」―。“裏の戦争”ともいわれるドキュメンタリ−映画「沖縄スパイ戦史」(三上智恵×大矢英代監督、2018年)を観ながら、太平洋戦争中、旧日本軍の間で好んで歌われた軍歌「同期の桜」の一節が唐突に口からもれた。戦死を美化する「散華」(さんげ)のシンボルがこのソメイヨシノ(染井吉野)なら、「散るな、生きろ」と叫ぶのは南の島に咲き誇るカンヒザクラ(寒緋桜)である。この映画はヤマト(日本)とウチナ―(沖縄)との気の遠くなるような精神の隔たりをふたつの「サクラ」に託した物語でもあった。
敗戦1年前の1944年の晩夏、特務機関「陸軍中野学校」から42人のエリ−ト青年将校が秘かに沖縄に送り込まれた。少年ゲリラ兵の養成や軍命による強制移住、マラリア地獄、はてはスパイ虐殺…。第32軍の牛島満司令官が自決することによって、「沖縄戦」が表面上終結したとされる「6・23」(1945年)以降も北部の山岳地帯では凄惨な“秘密戦”が繰り広げられていた。青年将校たちが作戦に動員したのは、まだ10代半ばの少年たちだった。「護郷隊」と呼ばれた。映画は当時の生存者を探し当て、戦後初めてその闇を浮かび上がらせた。
沖縄本島北部―国頭郡大宜味村の小高い山にカンヒザクラが花を咲かせている。植樹を続けているのは瑞慶山良光さん(91歳)。16歳の時に護郷隊に召集された。死線をさ迷った末に奇跡的に生き残ったが、長い間「PTSD」(心的外傷後ストレス障害)に侵された。“兵隊幽霊”と蔑(さげす)まれ、座敷牢に閉じ込められた。その瑞慶山さんはいま、戦地に散った若い戦友69人分の苗木を手塩にかけて育てている。沖縄で「花見」と言えば、カンヒザクラを指す。1月初旬から開花が始まる。一部満開になった桜の木の下で瑞慶山さんら2人が微笑みながら、握手する場面が映画に出てくる。
同じ護郷隊の一員だった高江洲義英さん(当時17歳)はこれまで「戦死」として記録されてきたが、数年前、戦友の証言から実は日本軍の軍医によって、射殺された事実が明らかになった。「破傷風から精神に異常をきたし、軍務の足手まといになる」というのがその理由だった。瑞慶山さんはショックに打ちひしがれる弟の義一さんをほころび始めたカンヒザクラの下に誘った。可憐な一重の花びらを見上げながら、二人は固く手を握り合った。「もう、忘れていいよ。わたしがここで、覚えているから」と瑞慶山さん。濃いピンクの花弁は南の島の太陽を体いっぱいに浴びながら育った護郷隊の少年たちの笑顔のように見えた。
戦後、護郷隊を組織した青年将校の中には「懺悔」(ざんげ)の気持ちから、1000本以上の桜や果樹の苗木を沖縄に送り続けた人もいた。しかし、亜熱帯の地でソメイヨシノが根付くことはなかった。この桜は大和魂が息づく「ヤマト」の地でしか花を咲かせることはできまいと思う。ふと、現実に引き戻される。「桜を見る会」や「サクラを集める会」に浮かれた“同期の桜”たちよ、そろそろ、ソメイヨシノに殉じて潔(いさぎよ)く散ったらどうなのか!?(2019年12月18日付当ブログ参照)。かつて、護郷隊が生死の彷徨(ほうこう)を余儀なくされた沖縄北部のまち…読谷村でこの映画会は開かれた。誘ってくれたのは現在、辺野古新基地建設反対の最前線に立つ金城武政さんである(1月11日付当ブログ参照)。上映後、金城さんがポツリと口にした。
「軍隊は住民を守ってはくれない。辺野古の現場でも自衛隊の配備が進む宮古や石垣などの南西諸島でも、護郷隊の再現が秘かに計画されているのです」―。今年の「桜(カンヒザクラ)を見る会」は羽地内海(はじないかい)を眼下に望む瑞慶山さんの桜林で2月1日に開催される。那覇市内では今月6日、カンヒザクラが開花した。平年より12日、昨年に比べて4日早い開花である。
(写真はカンヒザクラの下でかつての戦友たちを偲ぶ瑞慶山さん(左)と高江洲義一さん=インタ−ネット上に公開の映画の一シ−ンから)