「マスク拒否し大声/臨時着陸」(9日付「朝日新聞」)―。北海道・釧路空港から関西空港に向かっていた航空機内で、乗客のひとりがマスクの着用を拒否。他の乗客と口論になるなどしたため、航空法の安全阻害行為に当たるとして、新潟空港に臨時着陸……このニュ−スに接しながら、私は思わず「ウ〜ン」とうなってしまった。乗客と航空会社双方の行為の是非についてではなく、コロナ禍がもたらした“行動変容”(ニュ−ノ−マル=新常態)がついにここまで来たのかという奇妙な感懐である。戦前の残滓(ざんし)を背負う世代として、この光景があの時代の“全体主義的”なたたずまいを思い出させたのかもしれない。
「馴化」(じゅんか)―。心理学の概念で、ウキペディアはこう解説する。「ある刺激がくり返し提示されることによって、その刺激に対する反応が徐々に見られなくなっていく現象を指す。特に、報酬をもたらすわけでも有害なわけでもない中立的な刺激に対して生じやすい」―。まさに今回の“マスク”騒動がこれに該当するのだろう。しかし、こうした行動変容が無意識のうちにある種の「自粛」から「自発」へと向かい、そのことに当の本人がほとんど無自覚である――という点で随分と厄介である。つまり、本来はマスクの着脱は個人の「自由」であるにも関わらず、自発的な善意集団(”正義の味方”)がその自由をはく奪するという“隘路”(あいろ)に迷い込んでしまうという恐ろしさである。たとえば、かつての「自警団」を彷彿(ほうふつ)させる”自粛警察”の出現…
9月定例会の一般質問がこの日、終わった。議員側も当局側も全員がマスク姿である。登壇者が変わるたびに議会事務局員が演壇の仕切り板のパ−テ−ションを丁寧に除菌する。これまで見られなかった光景だが、コロナ禍ではこれが「日常」(新しい生活様式)になりつつある。「違和」がだんだん、薄れていく。こんな議場の風景を眺めているうちに、私たちが陥っている“隘路”とは実は行動変容に追いつかない「思考停止」ではないのかとふと、心づいた。世界中が同時パニックに陥ったと言っても良いかもしれない。
今回、図書館問題を正面から取り上げたのは大原健議員(無所属)だけだった。同議員は市議会先例集で兼務が禁止されている社会教育委員に名を連ねており、その“利益相反”ぶりが疑問視されている(8月28日付当ブログ参照)。当局案を精査するために市議会に設置されている「新花巻図書館整備特別委員会」の小委員会の委員も務めているが、この日の質問では「基本的には当局案に賛成。ただ、賃貸住宅の必要性についてのニ−ズ調査はやるべき」と相変わらず、“二股膏薬”的な態度を隠さなかった。この発言が逆に呼び水になったのであろうか、上田東一市長が突然、激した口調でまくしたてた。これを称して、”逆切れ”(パニクる)というのであろう。すわっ、“図書館戦争”が全面戦争に……!?
「我われが提示した賃貸住宅付きの新図書館構想はあくまでも構想段階のもので、強引に進めるつもりは毛頭ない。原点に返ったつもりで、ワ−クショップなどを通じて市民の意見を丁寧にくみ取りたい。当局側の説明不足はあったとは思うが、議員の皆さんも質(ただ)すべき論点があいまいではないか。たとえば、構想の下敷きになっている立地適正化計画について、これまで議会側や市民に何回も説明をしてきたにもかかわらず、余りにもその認識がない。議会側の怠慢ではないか、と正直思う。その結果、(図書館建設が)遅れるなら、仕方がない。ただ、私に対する反発だけから、この計画が間違った方向に行くことだけは避けてほしい」
コロナ禍を受け、久慈市の情報交流センタ−「YOMUNOSU」(よむのす)内にこのほど、パソコンやスマ−トフォンから閲覧できる24時間対応の専用サイト「久慈市電子図書館」が運用を開始した。県内では矢巾町に次いで2館目。久慈市の姉帯裕子館長は「図書館もコロナ禍の新たな生活様式に対応していく必要がある」(9月2日付「岩手日報)と話している。当市の今定例会での質疑応答の中で、コロナ禍をめぐる冷静な政策論争は最後までなく、「理念なき図書館」論争(バトル)という後味の悪さだけが残った。「崖っぷち!?『イ−ハト−ブ』の二元代表制」(8月28日付当ブログ)……。やはり、首長と議員(議会)との同時リコ−ル(解職請求)しか道は残されていないようである。感情だけが先走った不毛な光景を見せつけられ、心底、そう思った。つまりは「どっちもどっち」ということである。
(写真は図書館問題について、当局側の考えを質す大原議員=9月9日午後、花巻市議会議場で。インターネット中継の画面から)