「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)」(『春と修羅』序)―。自らを幽霊、すなわち“お化け”と称して憚(はばか)らない宮沢賢治につきまとわれて、早や2年が過ぎようとしている。そして最近、言い知れない不毛感に襲われるようになった。そのきっかけは「駅前か病院跡地か」という新花巻図書館の立地論争に起因するような気がする。ある意味で、図書館との親和性が一番強いはずの、賢治を軸にした「図書館」論議かほとんどなかったからである。その間隙をぬうようにして、表面化したのがいわゆる賢治をめぐる“利権”騒動だった。
「実在する建物を賢治が気に入り、逆に建物に合わせて物語を創った例が見つかった」―。宮沢賢治学会の「イーハトーブセンタ―会報」(2007年9月30日発行、第35号)にこんな記述がある。「花巻・菊池捍邸と賢治寓話『黒ぶだう』」と題する論考の中の一節で、筆者は「黒ぶだう」モデル説の提唱者のひとりである。賢治研究の専門家は会報の中で「作品の推定執筆時期の再考を迫る事柄」と太鼓判を押し、この主張に“お墨付き”を与えた形になっている。37歳という「夭折」(ようせつ)はそれ故に時代の波に翻弄(ほんろう)される運命にあったのかもしれない。
「玄米四合から三合へ」―。賢治の詩「雨ニモマケズ」が戦後の国定教科書で改ざんされた事件(10月1日付当ブログ参照)について、当時検定を担当した作家の石森延男(故人)は賢治の弟、清六さんの話として、こんな会話を書き残している。「かまいませんよ。兄はそんなことにこだわりませんし、笑っているでしょう」。旧菊池捍邸の『黒ぶだう』モデル説もある意味で、賢治学会という“権威”の後ろ盾によって生み出されたと言える。本来なら、その作品性を固守すべきはずの親族や賢治研究者が率先して、賢治“利権”の構築に加担。そのあげく、ふるさと納税獲得のための“広告塔”に利用されるに至っては、おらが賢治は余りにも哀れすぎないか。
”賢治教”ともいうべき神格化された賢治と「食わず嫌い」の賢治知らず…。“両刃の剣”という意味でこの郷土の偉人は「取扱注意」の人物である。だからこそ、不断から「トリセツ」をきちんと整えておかなければならない。時と所をかまわずにひょいと目の前に出現する、賢治のその神出鬼没ぶりが私は好きである。ある種の“憑依”(ひょうい)感覚と言ってもいいかもしれない。私は以前、新図書館の構想について、以下のような「私論」(一部抜粋)を書いた。登場人物たちの賢治との距離感に同じ感覚を抱いたからである。そんな人物たちが行き交う「IHATOV・LIBRARY」(「まるごと賢治」図書館)を私は夢想している。しかし、その図書館周辺にも”利権”疑惑が…
●賢治を「師」と仰いだ人材は世界各国にキラ星のように存在する。例えば、原子物理学者の故高木仁三郎さんが反原発運動の拠点である「原子力資料情報室」を立ち上げたのは賢治の「羅須地人協会」の精神に学んだのがきっかけだった。また、アフガンでテロに倒れた医師の中村哲さんの愛読書は『セロ弾きのゴーシュ』で、絶筆となった自著のタイトルはずばり『わたしは「セロ弾きのゴ−シュ」』だった」
●さらには、シンガーソングライターの宇多田ヒカルのヒット曲「テイク5」は『銀河鉄道の夜』をイメ−ジした曲として知られる。一方、戦後最大の思想家と言われた故吉本隆明さんに至っては「雨ニモマケズ」を天井に張り付けて暗唱していたというから、「賢治」という存在がまるで“エイリアン”のようにさえ思えてくる。こうしたほとばしるような“人脈図”がひと目で分かるようなコーナーを設置し、賢治という巨木がどのように枝分かれしていったのかーその思想の全体像を「見える化」したい。
(写真は賢治のイラスト。“お化け”は死なないので、「没後」90年以上たった今も賢治は生きている=インターネット上に公開のイラストから)
《追記ー1》〜「無罪」という名の”死刑”!!??
「無実の罪(えん罪)によって、袴田巌さん(88)の失われた58年間は実質的な”死刑”執行ではなかったのか」―。検察側の控訴断念によって、袴田さんの無罪が確定した「この日」(10月8日)のその姿をテレビで見ながら、法の残酷さを思い知らされた。その一方で、弟を支え続けた姉の秀子さん(91)は「(無罪を)信じていたので…」と満面の笑みを見せた。その表情が何とも神々(こうごう)しく輝いていた。この人は「神」ではないかと、心底そう思った。おらが賢治に降りかかった”えん罪”も晴らしてやらなければ…
《追記―2》〜「高瀬露」のえん罪も晴らしたい!!??
花巻市在住の賢治研究者である鈴木守さんは袴田巌さんの無罪確定を受けて、自らのブログ「みちのくの山野草」(10月8日付)に以下のような所感を掲載した。鈴木さんは賢治の恋人と言われた「高瀬露」さんが各種研究書などによって、“悪女”に仕立て上げられた経緯を実証的に検証。『本統の賢治と本当の露』などの著書で、その”悪女伝説”の実態を明らかにし続けている。
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私は、袴田巌さんおめでとうございますと、お姉さんのひで子さんには、お疲れ様でしたと言った。そして、そうか、やはり冤罪だったのかと私は安堵した。次に、己を鼓舞した。私も、高瀬露の濡れ衣を晴らすためにこれからも粘り強く取り組んでゆかねば、と。それは、巌さんもひで子さんも共に58年間闘って勝ち取ったわけだが、私がコツコツと取り組んできたのはまだ18年目なのだから、まだまだ頑張り続けねば。老い先短い私ではありますが……。
それにしてもおぞましく思うのは、捜査機関が証拠を捏造したことだ。そして、高瀬露の場合もある出版社によってそのようなことが為されていたという蓋然性が頗る高いことだ。つきましては、このブログ等を通じて〈高瀬露悪女伝説〉は濡れ衣であり、謂わば冤罪ですよ、と今後も皆様に訴え続けてまいりますのでどうぞよろしくお願いします。
《追記―3》〜「当時の報道、おわびします」!!??
「葬儀にも参列/顔色も変えず」「検察側の追及をふてぶてしい態度ではねつけてきたが、ついに自供した」―。袴田さんの無罪確定を受け、かつて在籍した朝日新聞は9日付一面で東京本社編集局長名の謝罪文を掲載した。「明らかに人権感覚を欠いてしました」という58年を経た末の詫び状に思わず、身を固くした。袴田さんが逮捕された1966年当時、私は26歳の新人記者として、初任地の西部本社(九州)管内で取材活動をしていた。
遠い静岡の地で起きたこの凄惨な事件の記憶はいまも、頭の片隅にこびりついている。しかし当時、袴田さんに寄り添うような姿勢があったかと自問すればまったく、自信がない。むしろ逆だったのではないか…。ただ、その後の取材活動の軸足がたとえば、足元の被差別部落問題や北海道ではアイヌ民族の差別問題へと向かって行った軌跡をたどれば、あるいはこの「事件」の教訓をどこかで引きずっていたのかもしれないと思う。目の前では賢治が理想郷と呼んだ「イーハトーブ」の腐敗が止まるところを知らない。目を背けるわけにはいかない。