2020年アカデミ−賞(オスカ−)で、作品賞や監督賞など最多4部門を総なめした韓国映画「パラサイト」(ポン・ジュノ監督、2019年)のサブタイトルは「半地下の家族」である。コロナ危機の影響で図書館や趣味のイベントが行われる公共施設の閉館が続く中、やもめ暮らしの孤独をかこつ身としてはまさに、こうした「コロナ鬱(うつ)」ともいえる“半地下”状態からの脱出こそが喫緊(きっきん)の課題だった。幸いお隣の北上市の映画館で、アジア初の快挙を成しとげたこの映画が上映中と知り、さっそく出かけた。観客はマスク姿の数人だけだったが、頭のもやもやがす〜っと晴れていく一方で、何やら迷宮にまよい込んだような不思議な気持ちにさせられた。
「パラサイト」とは本来は医学用語で「寄生虫(生物)」を意味し、ウイルスなども含まれる。この映画は韓国の格差社会に焦点を当てた作品で、北朝鮮の攻撃に備え国の政策として建設された「半地下」(つまり、防空壕)に住まわざるを得なくなった貧困層の家族が、高台の豪邸に住む富豪一家にあの手この手で“寄生”していく様子を悲喜こもごもに描写している。思わぬどんでん返しもあちこちに用意されている。たとえば、豪邸の地下には核攻撃に備えた「シェルタ−」があり、家人の知らないうちにもう一人の「パラサイト」がそこに住みついていることが発覚する。下へ下へと際限なく落ちていく格差社会の闇の深さにおののいてしまうが、サスペンスやコメディもあり、単なる「告発」映画になっていないところがポン監督のすごさである。
そんな想念が突然、時空を飛び越えてあらぬ方向に向かった。敗戦の翌年から半世紀つづいた論壇誌『思想の科学』が廃刊されたのは今から24年前。愛読者だった私はそのいきさつを聞くために創刊者のひとりだった評論家の鶴見俊輔さん(故人)に面会を申し出た。あらかたのインタビュ−が終わった時、鶴見さんが急に話題を変えた。「ところで、すごい漫画を読んだよ。昨日、徹夜をしてな」。当時、大きな反響を呼んでいた漫画「寄生獣」(岩明均作、全10巻)のことだった。さすが博覧強記(はくらんきょうき)な鶴見さんだと思ったが、私自身は作者もその話題作も知らなかった。さっそく、取り寄せて読んでみた。ガツンと頭を一撃されたようなショックを受けた。
ある日突然、宇宙の彼方から正体不明の生物が地球に集団飛来する。その正体は“寄生獣”…鼻や耳などから人間の頭に侵入し、脳全体に“寄生”して全身を支配し、超人的な能力で他の人間を捕食するという性質を持っている。こうして、人間を「宿主」(しゅくしゅ)とする寄生獣(パラサイト=ウイルス)の群団は急速に知識や言葉を獲得し、人間社会に紛れ込んでいく…。主人公である高校生の「新一」も一時乗っ取られそうになるが、脳への侵入は辛うじて食い止められる。しかし、右腕への感染を許してしまった人間・新一と寄生獣との壮絶な闘いが続く。「地球環境を汚染する人間は万物の霊長などではなく、地球を食い物にする“寄生獣”である」という文節が記憶の奥にかすかに残っている。コロナ危機の包囲網が忘却の彼方にかすんでいた記憶のひとかけらを呼び戻したのだろうか。と、つぎの瞬間、もうひとつの光景が目の前に浮かんだ。
日本最大の産炭地だった筑豊―。公文書改ざん問題をめぐって、自殺者まで出しながら、口をへの字に曲げてへらへらと薄笑いを浮かべる麻生太郎・財務大臣兼副総理…この人の先祖「麻生財閥」が経営していた、“圧政ヤマ”として知られた炭鉱長屋の前に長蛇の列ができていた。もう50年近くも前のことである。閉山でヤマを追われた元坑夫たちは食い扶持(ぶじ)を支えるための生活保護の支給を待っていた。窓口には前借金を取り立てる暴力団員が待ち構えていた。花札に興じる男が声を荒げた。「おれたちが真っ黒くなってスミを掘ったから、麻生は肥え太ったんじゃないのか。保護をもらって何が悪いんじゃ」
「持てる者」と「持たざる者」―。この両者はいつの時代でも相関関係にある。どちらかを欠いてもその関係は成立しない。映画「パラサイト」の貧乏一家も、そして圧政ヤマで搾取され続けた元坑夫たちも「持てる者」に対する、絶望的な“復讐劇”を演じたのかもしれない。そう思えてきた。
そしていま、全世界、いや全人類がコロナウイルスの猛威の中で、その生存の基盤さえ奪われかねない瀬戸際に立たされようとしている。世紀末(パンデミック)の予感…。ひょっとしたら、どこか別な惑星から新たな寄生獣の集団が襲いかかっているのかもしれない。人類との全面戦争を企てるために…。「なんて世の中だ、手がふるえる、恐い 命 大切な命 」(3月18日付当ブログ参照)―。自死した財務省職員、赤木俊夫さんの絶命の書が目の前を去来する。地球環境にとっては、人間こそが”寄生獣”だという逆説、そして「最後の審判」の到来という悪夢……脈絡のない想念の嵐が頭の中をぐるぐる、回り始めている。
「コロナ鬱」のなせる大いなる”妄想”に、私は憑(と)りつかれているのだろうか。そうかもしれない。しかし、私たちはいま、理非曲直(りひきょくちょく)を見失った「不分明」(ふぶんみょう)の世界を生かされていることだけは間違いなさそうである。
(写真は半地下生活を強いられるキム一家=インタ−ネット上に公開のパンフレットから)
《追記》〜「コロナ危機」余話……“マスクマン”の登場(コメント欄に写真掲載)
花巻市の上田東一市長がここ数日来、来客対応や記者会見の場などに目とひたいが見える程度の大型マスク姿で登場。新聞などでその姿を知った市民の間で、様ざまな憶測が飛び交っている。コロナウイルスの感染が隣県の青森や秋田など足元への広がりを見せる中、「わがイ−ハ−ト−ブへの侵入だけは絶対に阻止する。コロナに屈しないで、最後まで陣頭指揮をとる」―というトップにふさわしい決意表明だと賛意を表す市民も多いらしい。その一方で「こんな格好を見せつけられれば、逆に不安をあおるだけではないのか。首相や県知事でも会見などでは素顔。大事を取った予防対策なのか、あるいは本当に体調がすぐれないのか。だとするなら、率先して検査を受けるなり、いっそのことテレワ−クにしたら…」などと体調を気遣う声も。
「公務中にマスクを外さないのは何か体調不良でもあるのではないか」―。実は私も不安を抱いたひとり。担当課に経緯を聞くと、「市長は公人と同時に私人。なぜ、マスクを着用しているのかなど疾患の有無をただすのは個人情報に関わるプライバシ―の問題で、詮索するのは差し控えたい」という“市民目線”が欠落した回答にこっちの方がびっくり。「市民の安心・安全」を守ること、つまり時節柄、市民の不安を取り除くことも首長の大事な使命である。私がこの人の立場なら、胸を張って、こう言うのだが…。「万が一に備え、多くの人たちにマスクの着用を促すため、まず自分がつけることにした。体調は万全ですので、ご心配なく」―。いずれ、市長自らの口からこの”異様な光景”の背景についての説明を待ちたい。
そうではなくても、マスクの在庫不足がささやかれる中、多くの市民は「コロナ鬱」の生活を強いられている。ちなみに、花巻市内の薬局や大手ドラッグストアではマスクの在庫がほとんど底をついた状態になっている。予告なしの入荷を当てにして、開店前から市民たちの長蛇の列ができ、殺気立った空気さえ流れている。まさか、今回の「マスクマン」の出で立ちが自己防衛のための”保身”マスクだとは思いたくないのだが…