防具服に身を固めた葬祭業者にオンライン葬儀、ドライブスル−焼香…。本来は隣り合わせだったはずの「生」と「死」の風景がコロナ禍の中で一変しつつある。タレントの志村けんの親族が遺体との対面さえかなわなった出来事があまりにも鮮烈すぎる。戦死や海難事故死、「3・11」のような行方不明死などによって、“いまわの際(きわ)”に立ち会えない不幸は人生にとっては避けられない宿命であるが、今回は目の前の亡き人との最期の別れさえできないという、かつて経験したことのない「葬送」の風景である。生と死との最後の橋渡しをする“納棺師”の言葉がよみがえってくる。人間実存の根底から、それは聞こえてくるような気がする。
「私が初めて湯灌(ゆかん)・納棺を始めた昭和40年代には、まだ自宅死亡が5割以上もあって、山麓の農家などへ行くと、枯れ枝のような死体によく出会った。肌色も柿木の枯れ枝のように黒ずんでいた。そんな遺骸(がい)が、暗い奥の部屋に『く』の字となって横たわっていた。そんな村落での老人の死体は、遺骸という言葉がぴったりで、なんとなく蝉の抜け殻のような乾いたイメ−ジがあった」(『納棺夫日記』、1993年)―。作家で詩人の青木新門さん(83)は葬祭業を営んでいた当時を回顧して、こう書いている。「大往生」という見事な死に際が目に浮かんでくる。
日本映画で初めて、第81回アカデミ−賞外国映画賞(オスカ−)を受賞した「おくりびと」(滝田洋二郎監督、2008年)は青木さんの同書を下敷きにした作品である。生から死へと向かう瞬間の営みが納棺師の手を経ておごそかに行われる。一生を終えた「人生」の最後に立ち会う「生者」と「死者」との間に通い合う何とも言えない神々しさを描いた傑作である。何度かお会いし、宮沢賢治の死生観について伺ったことがある。こんな言葉がまだ、頭の片隅にこびりついている。「毎日毎日、死者ばかり見ていると、死者は静かで美しく見えてくる。死者の顔は安らかな顔をしている。死と対峙して、死と徹底的に戦い、最後に生と死が和解するその瞬間に、あの不思議な光景に出会うのだろうか」―
もう間もなく丸10年になる東日本大震災で、白銀照男さん(71)は母親と妻、一人娘の3人を奪われた。まだ、3人の行方は分かっていない。あの震災の2年後、白銀さんが住む大槌町の仮設住宅の一室で、“復元納棺師”の笹原留似子さん(48)にお会いした。「触れたい、添い寝したい、話したい」…こんな遺族たちの願いをかなえようと笹原さんは遺体と向き合っていた。損傷した亡骸(なきがら)に少しずつ、笑みが戻ってくる。その口元にそっと、紅をさす…。遺族のもとに返した数は数百人にのぼる。「早く見つけて、3人を照さんに引き合わせてあげたい」―。白銀さんの肉親捜しにも同行する笹原さんはその時、こうつぶやいた。「最期のお別れ」の本当の大切さを教えられたように思った。
「あなた変わりはないですか/日ごと寒さがつのります/着てはもらえぬセ−タ−を/寒さこらえて編んでます/女ごころの未練でしょう/あなた恋しい北の宿」―。このところ、哀愁のこもった演歌をひとり口ずさんでいる自分にハッとすることがある。40年近く前、北海道の北炭夕張炭鉱でガス突出事故発生、93人が死亡するという大惨事が起きた。坑底の闇の中で、ある下請け坑夫は妻子を残したまま息を引き取った。同僚のその死を腕に抱きながら看取った知人の男は、居酒屋で酒を飲むたびに狂ったようにこの「北の宿」を歌うのだった。あの時のまるで吼(ほ)えるような歌いっぷりの心の内が今になって少し、分かるような思いがする。
「震災は、日本の人々の、死との向き合い方を変えたのではないかといわれています。では、死とはどのように向き合っていくべきなのか。死とは何か。死の現場では、何が起きているのか。見送る現場で、わたしは何を感じ、伝えてきたのか」―。笹原さんは死の最前線での稀有(けう)な体験をつづった自著『おもかげ復元師』の中にこう記している。笹原さんが寄り添い続けた、その「死」が今、どんどん遠のいていく。故人の最後の「おもかげ」さえも記憶することができないような時代の幕開け!?「生」と「死」とが隔離される“新しい日常”を私たちはどう生きて行ったらいいのか…、「人はなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」―を問いかける、これはまさに哲学的な命題なのかもしれない。
(写真は車の窓越しに手を合わせる“ドライブスル−焼香”。世紀末の風景とはこのことを言うのであろうか=インタ−ネット上に公開の写真から)