「みちのくの電信王」と呼ばれた男がいた。デ−タ通信の先駆けであるテレプリンタ−(印刷電信機)を開発した谷村貞治(1896―1968年)である。プロ野球界で活躍する菊池雄星(西武ライオンズ)や大谷翔平(日本ハムファイターズ)らを育てた「花巻東高校」の前身―「谷村学院高校」の創設者といった方が理解が早いかもしれない。
当時の稗貫郡新堀村(現花巻市石鳥谷町)に生まれた谷村は昭和12年、東京・蒲田に「新興製作所」を設立した。国内外に販路を広げ、事業は隆盛をきわめたが、戦時下での地方分散という国の要請を受け、ふるさとへの移転計画が持ち上がった。ねらいをつけたのが東公園だった。当然、議会筋から反対論がわき起こった。
「町有地貸付ノ件」―。10年間の「期限付き貸与」という条件付きで花巻町議会(当時)が議案を可決したのは昭和19年11月のことだった。しかし、議員の中からは「原形ヲ損ゼザルコト」、「煙突ヲ設ケシメザルコト」、「建物売却ノ場合ハ役場ニ優先権ヲ与ヘルコト」(議事録から)などと厳しい注文が相次いだ。当時の議員たちが花巻城址の行く末にいかに心をくだいていたかが手に取るように伝わってくる。そして、長かった太平洋戦争の終結―
「戦争が終わったのだから、疎開工場は東京に戻ってほしい」、「東公園をふたたび町民の手に」…。戦後の混乱期が落ち着きをみせると、今度は議会筋からの「返還」要求が再燃した。一触即発の緊迫した空気がまちを覆いはじめた。谷村は当時を回想して、こう記している。
「おしまいには町会議員全員が押しかけて来る。戦時中なんか町長さんが東京まで来て、私に是非花巻に疎開してくれと頼みに来たくらいなんですよ。…いま、町議全員が行くぞ、とね。それで私は所長室から工場の中に入って行きまして、従業員諸君を集め、今こういうわけで町会議員が沢山やって来るから、私が手を挙げたらみんな出て来てとりまいてくれ、といいましてね。で、町会議員たちがやって来た。手を挙げた。やれっ、とね」(『白萩荘随談』昭和33年)
こうした攻防に終止符を打ったのは「花より団子」という故北山愛郎町長(当時)の鶴のひと声だった。社会党左派の立場で町長選を勝ち抜いた北山町長は当時を振り返ってこう述懐している。「あの東公園を町民に返してくれという流れと、そうじゃない。これからは生産工場のほうが大事だという意見が対立しましてね。私は戦争に負けて、こうなれば『花より団子』じゃないか、と」(『顕彰』谷村貞治先生遺徳顕彰会発行)
「土地交換に関する件」―。昭和23年6月、町議会は全会一致でこの議案を可決した。東公園を含む花巻城址という「公共財産」が全面的に第三者の手に落ちた瞬間だった。戦後の最盛期、新興製作所の従業員は2千人を超えた。当時の町の人口が約1万5千人だったことを考えると、家族を含めざっと1万人近い町民が「谷村王国」によって生活が支えられていたことになる。戦後復興期のこの時、行政トップの「政治決断」としてはこれ以外の選択肢はなかったのかもしれない。
(写真は花巻城址の払い下げ問題で侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が続いた当時の議会議事録=花巻市議会事務局図書館所蔵)
《追記》〜花巻市で初のコロナ感染
市HP(ホームページ)に上田東一市長が市民向けのメッセージを掲載