「50年間の土地の賃貸借などもってのほか。この場所が最適地だとするなら、JRと交渉して、市有地として取得すべきだ」―。新花巻図書館の立地をめぐって、過去の歴史をないがしろにした不毛な議論が延々と続いている。今年1月末、JRが所有する花巻駅前のスポ−ツ店跡地に「住宅付き」図書館を建設するという、いわゆる“上田(東一市長)私案”が降ってわいた。市民の猛反対に合い、今月に入って「住宅」部分は撤回することを表明したが、今度は「用地」論争のテンヤワンヤである。そこには「歴史の記憶」がすっぽりと抜け落ちた皮相なやり取りしかない。
130年前の1890(明治23)年、現在のJR東北本線「花巻駅」が開業した。中世ヨ−ロッパのペスト禍がルネサンス(文明開化)を産み落とすきっかけになったように、「文明は感染症のゆりかご」(山本太郎著『感染症と文明』)などとも言われる。いきなり、少し突飛な文脈だが、実は花巻駅の開業に当たっても、“疫病”騒動というひと悶着があった。『花巻市制施行記念 花巻町政史稿』(八木英三著、花巻郷土史研究会)と題する論考の中に、こんなくだりがある。ちなみに著者の八木は宮沢賢治が尋常小学校3年の時の担任で、その作品に大きな影響を与えたことで知られる。
「その頃、汽車は病気やばい菌を載(の)せて来るという迷信があり、停車場を忌避(きひ)する風が盛んであつた。これは独りこの地方だけの迷信ではなかつたので、今日そのために日詰駅や八戸駅が大変な不便を感じていることを考へれば、思半ばに過ぎるものがあろう。花巻の有志達も略(ほぼ)同様の思想で誰も土地を提供し様とする者がない。この時、伊藤儀兵衛は進んで自分の所有地の中から今日の花巻駅を提供し、駅前の通路を無料で寄附したのである。彼はこの様な迷信を一笑に附したのみならず、文明開化の発達のためには先づ交通通信の機関の完備を見なければならないことを主張した先覚者であつた」―
文中の「伊藤儀兵衛」(1848〜1923年)は貴族院議員も務めた豪商で、呉服商(屋号「笹屋」)を手広く経営。明治天皇の東北巡幸に際しては自宅を「行在所」(あんざいしょ)として提供するなど篤志家としても知られた。当時、伊藤の決断がなかったならば、現在の当市の発展はなかったはずである。さらに歴史を下ること95年後の1985年(昭和60)年、今度は「花巻百年の大計」を掲げ、1%の可能性にかけた住民運動によって、全国初の請願駅「新幹線新花巻駅」が誕生した。こうした「花巻駅」秘史を知る人はいまではほとんどいなくなった。
そしていま全人類は皮肉にも、航空機という交通手段の飛躍的な発展(グロ−バリズム)に伴い、コロナ・パンデミックという地球規模の脅威にさらされている。その未知のウイルスは私たちの足元「イ−ハ−ト−ブ」にもじわじわと忍び寄りつつある。伊藤がいま、この時代に生きていたならば何を語ったであろうか。ふと、そんな感慨にとらわれる。伊藤が無償で提供したその由緒ある舞台の上では相変わらず、用地分捕り合戦にうつつを抜かす“茶番”が演じられている。「コロナによって、時代は大きく変わった。当然、文明のありようも変らなければならない」。100年以上も前に“文明開化”という言葉を口にした伊藤のことだから、きっとこんな風に語ったのではないのか―とそんな気持ちにさせられる。
私たち市民有志はこのほど、「新花巻図書館―まるごと市民会議」(菊池賞・発起人代表)を結成した。発起人のひとりで、賢治研究家の鈴木守さんは伊藤の来歴を紹介しながら、こう語っている。「伊藤儀兵衛には利他的精神があり、しかもそのとおりに実践した。少なくともかつての花巻には伊藤のように己を犠牲にしても皆のためにという高邁で気概のある人物が少なからずいた。いまの行政は図書館を語るにこと欠いて、『コストパフォ−マンス』(費用対効果、つまり儲け)という言葉を口にしているらしい。いまこそ『歴史』から学ぶ必要があるのではないか」―
「過去に目を閉ざすものは将来に向かっても目を閉ざす」―。「まるごと市民会議」はある高名な外国人指導者の言葉にことよせ、図書館のありようを根本から考え直そうと思っている。たとえば、伊藤流「パラダイムシフト」(価値の転換)にならって、「コロナ禍の中の図書館はどうあるべきなのか」などと……。そのウイルスの拡大は止まることを知らない勢いである。“儲かる”図書館というグロテスクでおぞましい発想に今さらながら、怖気(おじけ)づいてしまう。
(写真は明治時代に伊藤が土地を提供したJR花巻駅周辺。駅頭に降り立つとシルエットの賢治が出迎えてくれる=花巻市大通1丁目で)