鶴陰碑はいま、花巻市博物館の一角に移転・展示されている。ボタンを操作すると、人名が拡大されて映し出される液晶画面が用意されており、先祖をしのぶ関係者や歴史愛好家の来訪が絶えない。上田東一市長の遠い血筋に当たる人物として「上田弥四郎」(1768―1840年)という名前が刻まれている。説明文には「花巻城の大改修工事(文化6年)の際に指揮を取り、『造作文士』とも呼ばれた。儒者としても知られる」と記されている。
ちなみに碑文の揮毫(きごう)の主は小原東籬(忠次郎)(1852―1903年)。わたしの曽祖父に当たる人物である。明治時代の筆札(ひっさつ=教師)のかたわら、書家の大家としても活躍し、五十三歳で没するまでこの地方の小学校で教師生活を続けた。その一方で公共事業にも足跡を残し、花巻市立図書館の前身である「豊水社」を創設したほか、花巻リンゴ会社、花き栽培奨励のための花巻農政社なども立ち上げた。
「この碑にはわたしの先祖の名前も刻まれている。城に対する思いは誰にも負けない」―。跡地の売却問題が表面化した際、上田市長は苦渋の表情をあらわにした。先祖が改修を手がけた城址の存亡に向き合わされるという歴史の皮肉…。わたしは縁(えにし)の不思議に胸をつかれた。その決断の時は時々刻々と近づいていた。
跡地の先買い期限が二週間後に迫った1月12日、「新興跡地を市民の手に!!あきらめるのはまだ早い」市民総決起大会が市内の会場で開かれた。地元住民の呼びかけに200人を超える市民が詰めかけた。参加者の中に『新花巻駅物語り』の筆者、渡辺勤さんの姿もあった。噛んで含めるようにこう語りかけた。「歴史を生きるということは未来のために何か大切なものを残すということ。あの時は子どもたちも貯金箱を持って募金に協力してくれた。目の前の新興跡地問題がまさにそれなんです」
「1%の可能性に賭けた住民総ぐるみの誘致運動の光景がまだ瞼に焼き付いています」―。市民総決起大会の決議文には一揆の頭領―小原甚之助の思いが込められていた。参加者の間から雄叫びが上がった。「そうだ。今度こそ『団子より花』。善意の浄財を募ってあの時の運動を再現しようではないか」
こうした市民の熱気に冷や水を浴びせたのはまたしても「さっさと帰れ」発言のもみ消しに躍起となった議員集団だった。(「新興跡地」の現状については、12月8日付当ブログ「猛毒『PCB』が所在不明に!?」を参照)
(写真は200人以上の市民が詰めかけ、熱気に包まれた総決起集会=2015年1月12日、花巻市の「まなび学園」で)
《注》〜「さっさと帰れ」発言
東日本大震災の際、議会傍聴に詰めかけた内陸避難者に対し、革新系議員が浴びせた暴言。私が義援金をめぐる“疑惑”を追及した際に発せられた発言だったが、結局、この発言は「なかった」ことにされ、逆に「議会の品位を汚した」と理由で私自身に懲戒処分が科せられた。