「こうした制約は、渡航や移動の自由が苦難の末に勝ち取られた権利であるという経験をしてきた私のような人間にとり、絶対的な必要性がなければ正当化し得ないものなのです。民主主義においては、決して安易に決めてはならず、決めるのであればあくまでも一時的なものにとどめるべきです。しかし今は、命を救うためには避けられないことなのです」―。ドイツのメルケル首相は昨年3月18日のテレビ演説で、コロナ禍に伴うロックダウンに際し、国民にこう訴えた。私はいま、この感動的な演説の残響音を耳に聞きながら、地元紙「岩手日報」の記事に目を落としている。
「上田氏3選出馬へ/花巻市長選」―。こんな見出しが1面に躍っていた。「上田氏」とは私がその市政運営のひどさ…「PO」(パワハラ&ワンマン)を批判するためにあえて命名した現職の上田東一市長を指している。同市長選にはすでに小原雅道・市議会議長が出馬の意向を示しており、同紙は「事実上の一騎打ちになりそう」と伝えている。この人は現下のコロナ禍にどう向き合ってきたのであろうか―。そう思い、HP上に掲載されている「花巻市長からのメッセ−ジ」を読み直してみた。9月24日現在の掲載本数は計16本。罹患状況やワクチン接種に関する情報がほとんどで、メルケル演説のような、いわゆる“琴線”に触れる言葉にお目にかかることは皆無と言っていい。
「親戚で集まっての法事やお墓参り、バ−ベキュ−などの中止や延期。やむを得ず、集まる場合であっても会食等を厳に控えること」―。県が独自の「緊急事態宣言」を発令した8月12日、上田市長は改めて、こう呼びかけた。「市民の皆様におかれましては、8月のこの時期はお盆休みや夏休みに入られている方も多いことと存じますが、ひとりひとりが、あらためて感染拡大防止に取り組むようお願いします」。側近中の側近である藤原忠雅・副市長による“会食”事件が起きたのはこの翌日のこと。まさに“懐刀”の耳にもトップの言葉は届いていなかったという驚愕すべき事態。「聞く耳」を持たない”裸の王様”は実は「Mr.PO」だけではなかったというわけである。”馬の耳に念仏”、いや”馬耳『東風』”を地で行く下手な大絵巻を見せつけられた思いだった。
「国民の命と暮らしを守る」―。一方で、百万遍念仏みたいにこの言葉を繰り返してきた菅義偉首相はわずか1年余りで退陣に追い込まれることになった。その大きな要因に「言葉の不在」を指摘する論者が多い。たとえば、臨床心理士の東畑開人さんは「問われるべきは自分の言葉だ。いや、違う。より根源的な問題は自分の耳にある。話を聞いてもらうためには、先に聞かなくてはならぬ。聞かずに語った言葉は聞かれない」(9月16日付「朝日新聞」)。さらに、哲学者で東京大学准教授の国分功一郎さんは菅退陣をめぐって「言葉の破壊をやめ、信じる価値語れ」と題して、こう語っている。
「背景にあるのは『言葉の破壊』ではないのか。我々と世界をつなぎとめているのは言葉である。(昨年3月のメルケル演説は)権利制限の必要性を国民に訴えた。東独出身である自身の重い経験を踏まえながら、政治家として事態に応答する責任を示した演説だった。政治の言葉はまだ生きているのだと感じさせる迫力があった。だからこそ政治家は、自らの信じる価値を自らの言葉で語り、国民が政治について判断を下すための助力をする者でなければならない」(9月17日付「朝日新聞」)―
「言葉が大事だ。日本文化には“言魂”(ことだま)という表現がある。言葉は命、魂だという意味だ。今回の件は日本の文化としても許すことはできない」―。9月8日付「岩手日報」に「本人、保護者死亡と誤送付」という大見出しの記事が掲載された。花巻市が市内在住の重度心身障害者10人に対し、7月2日付で本人や保護者が死亡したものと誤認し、医療費助成に必要な資格確認の届け出文書を送付していたという内容だった。今議会でこの「人権侵害」事案についてただされた際に発せられたのが、この発言である。謝罪の作法について、能書きを垂れたかったのかもしれないが、私はわが耳目を疑い、キョトンとして議会中継の画面を見つめていた。「まさか、この人の口から!?」という思いにとらわれたのである。
3選出馬に際し、「Mr.PO」の口からどんな魂(たましい)のこもった言葉が発せられるのか、いまから楽しみである。花巻市議会の9月定例会は24日に閉会。「イーハトーブ国」はこれから激烈な選挙戦に突入する。次期市長選は来年1月13日告示、同23日投開票。いざ、「秋の陣」から「冬の陣」へ……
(写真はテレビ演説で国民に訴えるメルケル首相=インタ−ネット上に公開の写真から)