「日ハ君臨シ カガヤキハ/白金ノアメ ソソギタリ/ワレラハ黒キ ツチニ俯シ/マコトノクサノ タネマケリ」…。流れ落ちる涙をこぶしで拭いながら、”放歌高吟”する行列を私はまるで、天から降臨した尊きものに接するような面持ちで眺めていた。幼少時、私は旧花巻農学校近くの“農学校通り”に住んでいた。卒業式を終えた花農生たちは宮沢賢治が作詞したこの歌を大声で歌いながら、学び舎を去っていった。
賢治は大正10(1921)年から4年余り、同校で教鞭を取った。当時、校歌を持たなかった生徒たちのために作ったのが冒頭の「花巻農学校精神歌」で、いまでは市民歌としても定着している。同校は昭和44(1969)年に閉鎖になり、現在地に移転した。当時の市長は「旧花農」跡地を宅地として分譲する計画を打ち出した。反対ののろしを上げたのは同窓会長で賢治研究者でもあった故照井謹二郎さんだった。「賢治の里にユネスコの火を灯そう」―。当時、花巻ユネスコ協会の立ち上げに尽力した同校教員の押切郁さん(93)らも加わり、「賢治ゆかりの地を文教地区」へという市民運動が燎原の火のように広がった。
「10以上の各種団体が賛同してくれた。当時の趣意書は大事に取ってある」―。まだ、矍鑠(かくしゃく)たる押切さんはこう続けた。「新図書館の立地問題が迷走するのを見てもう、黙ってはおられなくなった。旧病院跡地も賢治ゆかりの地という意味では同じ。あの時の市民が一致団結した熱気を伝えたい。私にはもうあまり、時間が残されていないのよ」―。押切さんたちの粘り強い運動が実り、閉鎖から4年後に旧花農跡地は現花巻市立図書館と文化会館、それに「ぎんどろ公園」を併設した一大文教地区に生まれ変わった。
「JR花巻駅前か旧花巻病院跡地か」―。あれから、ちょうど半世紀を迎えたいま、目の前ではどこに建てるかという“立地”論争が迷走の極を迎えている。「イ−ハト−ブ図書館をつくる会」などの市民グル−プが旧病院跡地への立地を上田東一市長に対して要望するなどの新しい市民の動きも出てきた。押切さんが力を込めて言った。「私はもう、何時あの世に呼ばれたっておかしくない。だから毎日、手紙を書いたり、電話をしたり、時には出かけて行って直接、話をしたりと忙しいの。でもね、あの時の高揚した気持ちが背中を押してくれるんだよね」
「イ−ハト−ブ高校」―。かつて、学校名をめぐってこんな“校名”論争があった。20年前の2003年、花巻農高と北上農高とが統合された際に起きたのがこの論争である。北上側のこの提案に対し、「やはり、賢治さんの息づかいが聞こえる今のままで…」と主張する花巻側に軍配が上がった。そしていま、「イ−ハト−ブ図書館」の建設を望む声が日増しにふえつづけている。100年ぶりに旧病院跡地の背後から霊峰・早池峰山がその雄姿を現したと思ったら、50年ぶりに移転するその移転先に急浮上したのがこの跡地…。それにしても「歴史は繰り返す」というのか、「歴史の縁(えにし)」の不思議に驚愕(きょうがく)さえ覚えてしまう。
久しぶりに賢治が愛したぎんどろの木が植えられた「ぎんどろ公園」を散策した。「風の又三郎」の石像群や詩碑などが点在する園内で風雪に耐えた木塔に再会した。精神歌の一節が刻まれた野太い筆字が目に飛び込んできた。「我等は黒き土ニフシ/マコトノ草ノ種マケリ」―。その精神歌はこう閉じられる。「日ハ君臨シ カガヤキノ/太陽系ハ マヒルナリ/ケハシキタビノ ナカニシテ/ワレラヒカリノ ミチヲフム」。当ブログのタイトル「ヒカリノミチ通信」はその精神を大切にしたいという思いから、賢治さんから勝手に借用して命名したものである。
(写真は賢治が教鞭を取った時代の旧花巻農学校の玄関口。この桜の木は私の記憶にも残っている=インタ−ネット上に公開の写真から)