この日をこんなに怒りに震えながら、迎えたのは初めてである。「天災は忘れた頃にやってくる」と言ったのは物理学者の寺田寅彦だが、年明けに襲いかかった能登半島地震は国政を司(つかさど)るべき為政者たちが東日本大震災など過去の災害の記憶と教訓をきれいさっぱり、忘却の彼方に捨て去ったまさに、その時にねらいを定めるように起きたのではないかとさえ思いたくなった。支援体制の信じられないほどの遅れにイライラしながら、私はある政府高官の無神経は言葉を思い出していた。
「(3・11は)まだ、東北、あっちの方でよかった。首都圏あたりだと莫大、甚大だったと思う」―。震災の6年後、当時の今村雅弘復興相はこう語り、被災者の怒りを買った。派閥の政治資金パーティーの席上での発言だったということも今の状況とピッタリ重なる。半島という地理的条件が支援の遅れを招いたという表向きの話の背後から、こんな声がもれ聞こえてくる。「日本海に突き出た半島だからまだ、よかった」―。発災から2か月半近くがたつ今も、ライフラインの復旧さえ追いついていない惨状の中で、永田町界隈は政治とカネと権力闘争に明け暮れている。“棄民”という言葉が頭をかすめた。
「アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」―。宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の中にこんな一節がある。受難者に寄り添い、その悲しみを決して忘れてはいけないというメッセージである。こともあろうに、このイーハトーブ(賢治の理想郷)の地を地盤とする二人の国会議員がその戒めに泥を塗るようなスキャンダルを引き起こし、そのモラルの崩壊(モラルハザード)に日本中が騒然となっている(9日付当ブログ参照=二人を神輿に担ぎあげた写真の輩も同罪)。“赤ベンツ不倫”と“口移しチップ“のご仁たちは一体、どんな気持ちでこの日を迎えたのだろうか。この日、挙行された「岩手県東日本大震災津波追悼式」に当然のことながら、この”時の人”の姿はなかった。
午後2時46分―。花巻市内の寺では13年前のこの時刻に合わせ、被災者や支援者が鐘を突きながら、手を合わせた。伊藤ヤスさん(87)の姿もあった。あの日、沿岸被災地の大槌町の自宅はあっという間に津波に飲み込まれ、夫も帰らぬ人となった。その年のうちに当地に移り住んだ。過日、市内の整形外科医でバッタリ会った。「膝が痛くってね。で、あんたは?」。足元が若干、おぼつかなくなって病院を訪れた私にヤスさんはニッコリほほ笑んで言った。「足腰が弱るのは順調に老いてる証拠。いただいた命なんだから、大事に生きなくては…。あんたは私より三歳も若いんだからね」―
珠玉の言葉をもらったような気持になった。「3・11」から「1・1」へ…。生きることの大切さを教えてくれたのは実は“被災者”の側ではなかったのか。私はこの日、84歳の誕生日を迎えた。
(写真は鐘をつき、手を合わせる伊藤さん=3月11日午後、花巻市愛宕町の妙円寺で)